どんぐり秘話

──それはもう10年以上も前の話である。

秋も深まったある平日、職場の仲間とゆっくりとランチに出かけた。いくつかの店が並んでいる中で、私が率先して「ここにしよう」と決めたのは瀟洒なカントリー調のカフェレストランである。ホワイトシチューが美味しいという噂で、前々から気になっていたのだ。店内に足を踏み入れると、フロアのあちこちには、それっぽいナチュラルクラフトやドライフラワーがごく自然にあしらわれている。テーブルも大きな木をカットした重厚なものだ。卓上のアロマポットからは爽やかな香りが立ち上る。天然素材がマッチした店の雰囲気は、とても落ち着いたものだった。

正直言うと、通い慣れた定食屋と明らかに違う店構えに、最初は入ることを少しためらった。そんな私の背中を押したのは、“気の利いたもてなし”の存在だった。それは入り口近くに控えめに書かれていたのだが、「ご希望の方は“どんぐり”をご自由にどうぞ」という旨のメッセージが書き添えられていたのである。案内された席に腰を下ろし、あらためて店内を見渡すと、壁のあちこちに蔓で編んだリースが飾られている。松ぼっくりやどんぐりなどの木の実がセンス良く留められており、手が込んでいるのが分かる。どうやら、店のオリジナルとして販売もしているようだ。どこか郊外の山から木の実をたくさん拾ってきて、店のスタッフがクラフトにいそしんでいるに違いない。きっとその一部を、顧客サービスに充てているのだろう。同僚達は気に留めていないようだが、私は絶対にもらって帰ろうと決心していた。

野菜がたっぷり入った濃厚なシチューは期待を裏切らなかった。パンも芳醇である。ランチにしては、ややお高めの価格だったが一同納得の味。すべて堪能した我々は、午後の仕事場に戻ることにした。一旦まとめて支払っておくこととし、私が会計のレジに向かった。そうそう、せっかくの季節限定キャンペーンを忘れてはいけない。やや控えめな声で「あの~、どんぐり頂けますか?」と申し出た。伝票片手にレジ操作をしていたアルバイトらしき若い女性スタッフは、何故かキョトンとした表情のままだ。聞き取れなかったのかもしれない。今度は少し声を強めて「ですから、表に書いてあったどんぐりが欲しいんですが…」。まだ彼女は新米だったのか、すぐにバックヤードに駆けてオーナーらしき気品あるマダムを伴って戻ってきた。これで話は早い。「子供が2人いるんで、できれば少し多めにお願いします!」。あくまで実直に訴えた。

優しい笑顔を浮かべたオーナー女史は、ゆっくりと私に近づき、耳元で囁くのだった。「お客様、申し訳ございません。入り口のボードに書いてあるのは、どんぐりではなく、“ドリンクサービス”ですのよ」。がーーーん。やっちまった…。顔の血の巡りが急加速しているのが分かる。とにかく、この場をすぐに立ち去ることだ。そそくさを会計を済ませようとすると、先のアルバイトちゃんは肩を震わせて失笑をこらえているではないか。誰か、この場をとり繕ってくれる仲間はいないのか? 私の早とちりに勘付いた同僚達は、我先にと店の外に出て皆で腹を抱えているのであった。

やっとの思いで店を出て、仲間に合流した。「アホか!」と皆の声が重なる。「どんぐりもらって誰が嬉しいんだ?」「しかも多めによこせだと?」「何杯もコーヒー飲んでただろ?」。私が一方的に責められている所に、先のマダムが追いかけてきた。「お客様!よろしければ、こちらをどうぞ」と微笑みつつ、小さな紙袋を手渡してくれた。そっと中を覗くと、そこには小さなリースが入っていた。もちろん、どんぐり付きである。一緒に添えられた付箋には「サービスの参考にいたします。是非、またご来店ください」と綺麗な文字が綴られていた。

この一件の後、私は周囲から「どんぐりさん」と呼ばれることになった。今でも街中に立てかけられたメニューボードに「ドリンク付き」の文字を見つけると、遠い昔の苦い思い出が蘇るのである。ま、でも何となく愛着も湧いてきたのも事実だ。そう、英語の格言にも<Every oak must be an acorn>ってのがあるじゃないか。つまりは、カシの大樹も元は皆どんぐりってこと。日々是精進なのさ。(by ドングリ)

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